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2008年7月7日
大学でのAO入試に廃止の動き
7月7日の日本経済新聞社会面に「AO入試、廃止の動き 大学生集めに有効だが…」という記事が出ていました。
九州大学法学部が2010年度にAO入試を廃止するほか、一橋大学も廃止ということです。
理由は『「基礎学力が足りず授業が分からない学生がいる」』ということだそうです。これを防ぐには、「AO入試」を廃止するか、「AO入試」でも学力試験をするかだとあります。
どちらにせよ、学力低下というより学習意欲の低下、知的好奇心の欠如、適切なる想像力の欠如などが大きいでしょうね。
これらが低下したことで「学力低下」が起こってきていると考えられます。「学習意欲の低下」は、テストのための学習を「学習」と思い込んでいるところから出てきているのでしょうね。そうでない育て方(人間になるための学習とか)をすれば、多くの場合、もっと勉強しますよ。
「知的好奇心の欠如」があるから、学習を「暗記」と心得て「暗記」することが目的となって「理解する」とかしないため、忘れるために「暗記」している状況ですね。十分に理解したことは非常に忘れにくいことを理解していない。理解すれば、学習に興味を持ちやすくなるのですがね。「適切な想像力の欠如」は日常生活においての弊害をもたらしてますね。
まあ、卒業認定、進級認定を適当にしてきたツケが出てきているのでしょうね。
一部のエリートさえしっかりすればと思っている輩がいるようですが、フィンランドやアイルランド、以前の日本は国民の平均的水準が高かった、あるいは、高い。そうだから世界に通用する国になっている、あるいは、通用していたのでしょう。
取り敢えずは、大学進学希望者は、どの入試方式であろうと大学入試センター試験を5教科7科目以上の受験と全ての受験科目で50%以上の得点を必須とすることからでも実行するべきですね。
2008年7月3日
地方の国立大学がさらに貧乏に?
7月3日の日本経済新聞社会面に「国立大運営費、学部ごと評価し交付金に差 文科省方針」という見出しの記事が出ていました。
国立大学運営費交付金ですが、私の感じで絶対額が少ないですね。土建より地域経済に貢献しているのにね。
国立大学の基礎的な経費(人件費や光熱費、学生への教育経費、研究費は激減でほとんどなし)を賄っているだけになってきていますね。研究成果は出にくいですね。研究成果で評価すると不利になります。そこで、地方大学や教育学部などには配慮とあるのですが、もともと貧乏状態にしておいて、財務省と文部科学省は『その水準を維持してやるから「配慮している」と思え』と思い上がっているのでは。
「研究」は目標設定ができないはずですね。技術開発では、まだ設定できる度合いが高いですが、そううまくいかないでしょうね。
日本は、少ない教育関係費でよく持ちこたえてきましたが、減額を続けるということは大学を単なる知識の切り売り機関にしてしまうと考えます。
科学研究費補助金の配分ですが、聞くところによると「無難な」題目や教員に集中する傾向があるとか。地方大学への配分も少なめのようです。企業からも少なめ。何もかも、少なめでは実績は上げにくいですね。
実績を上げた教員の多くは、有名大学に出て行ってしまうとか。
地方においても、高等教育を国民に提供するという役目を国は負っているはずです。そうできないのなら、ヨーロッパみたいに給付奨学金(授業料と生活費をまかなえる)を充実するべきですね。
日本は、金の切れ目が教育の切れ目になってしまっていると思います。
国民の教育水準を維持することは国の利益になります。受益者は国であり、国民全体なのです。国立大学運営費交付金をもっと、増やす必要があっても、減額する理由はないはずです。
2008年6月17日
学習時の問題集などの活用法について
6月16日の日本経済新聞教育面のコラム「挑む」で今回は次のような『問題集は学力向上手段=xと『深く理解する姿勢こそ』の見出しがありました。
受験勉強において、中学受験や高校受験では往々にして「入試に出るあらゆるパターンを練習して・・・」という指導方針の塾が多いとか。でも、それでは、大学入試には都合が悪い。なぜか、高校までの入試と違って幅広い範囲と観点から出題されていrからですね。
英語の題材は限りなくあるし、現代文のですね。古文でも。生物も。昆虫だけで数百万種ともいわれています。これらを網羅的に学習できるでしょうか。地歴等もしかりです。
「入試とは、自分の持てる知識を総動員して、未知の問題に対処していく力が試されるものだ。」とありました。俗に言う難関大学ほどこの傾向が強いですね。
だから、問題文が長いです。一問一答ではないですね。延々と読ませて、答えは論述。
これに対するには、問題集で問題を覚えるのではなく、問題の意味を深く理解するところから始めないとだめですね。そうすると出題形式が異なっていても、本質の部分で同じであれば問題が解ける訳です。
そのことに気がついていない受験生が多くいるように思うのですが、いかがでしょうか。単なる「暗記」ではPCなどに負けます。人間の人間たる所以は「好奇心」と「思考力」だと思います。
問題集では、深く理解することによって「思考力」が深まり、学力が向上するのではないでしょうか。
2008年5月2日
学びの形態、どのような方法がよいのでしょうか
5月2日に朝日新聞のサイトで『机はコの字、チョークなし教壇なし 進む「教室革命」』という記事を見つけました。
いろいろな意見があると思うのですが、この記事で紹介されている方法もその一つであると思います。
原理は、『佐藤学・東大教授(教育学)らが提唱する「学びの共同体」と呼ばれる取り組み』にあるというのです。「教え合い」とでもいうか、「競争原理主義者」が見たら気絶するかも。でも、広がっているところを見るとあの全国学力テストで結構よい成果を上げているのでしょう。実際、そうなると思います。
『千葉県八千代市立阿蘇中学校は昨年1月から、全学級で机をコの字形にした。多くの教科で1時間に1度は3〜4人組のグループ学習が入る。生徒同士の表情がよく見え、言葉も交わしやすい。教壇も無くした。教務主任の唐沢正美先生(51)は最初、おしゃべりが心配だった。ところが、今は「自信のない子も意見が出しやすいようだ。分からないところを聞き合う雰囲気が自然にできている」と感じている。』と取り入れた成果がありました。
本来、人間は「学ぶ」意欲を持っているのですね。それを順位付け等では一部を除いて失わさせているのが現状のようです。「競争」では、本来の学習の楽しさというのが抜けてしまうのです。それを補うのに「進路」を派手に持ち出しているのでは。
そうしないとすぐに「楽な」方向に向かってしまう現状があります。その点に気がついていない大人が多数いますね。
「順位至上主義」に付きもののこと、それは、犬には悪いですが「負け犬根性」ですね。一旦、順位がつくと次からは戦う前から諦めている。それも、完全な不戦敗ですね。後追いも仕掛けようとはしない状況が多いのでは。もう、勉強しても関係ないとばかりにね。勉強の意味が完全に失われているのです。
フィンランドはうまく乗り越え、イギリスは「競争原理」導入による学力低下を受けて「底上げ」に向かっているのです。日本の今の風潮は、イギリスの失敗した「競争原理至上主義」に向かおうとしている感じがします。
豊かになってくると、多くの国で「競争」では勉強しなくなるというのが普通のようです。
2008年4月30日
安全に対してというか、常識がないのでしょうか
4月28日に兵庫県の私立高校で「アーチェリーの矢、高1の頭に10cm刺さる」という事故が起こりましたね。それ以前にも、東京の方でしたか、砲丸投げ?ハンマー投げ?どっちだったか、グランドにいた他の生徒に当たるという事故が起きてました。
ただ、今回は部室で手入れ中ということなのですが、「人がいる方に向かって引かない(セットして持たない)」という原則が守られていなかったのでは。壁に向かっていれば事故は起こらなかった。矢の危険性を十分理解していなかったのでしょうね。
もう一つが「一橋大18歳新入生、寮で飲酒後死亡 急性中毒か」という記事です。こちらの急性アルコール中毒事故は時々、起こっていました。またか、という感じです。でも、医学部の新歓コンパであらかじめ医師に「新入生に酒を大量に飲ますのでもしもの時は・・・」と言って、医師から厳重注意されていた医学科生もいたいうことですから、俗に言う「文系」だからね。それでも、死なせてよいといういいわけにはなりません。
どれも、もう少し、安全についての意識があれば、防げていたと思われることです。
どうも、急性であったりして、重大な結果にすぐ繋がることに対してはそのことが起これば、皆用心するようです。
しかし、慢性であったり、要因が多数あって特定しにくいものには注意を払わない人が多すぎますね。それに、薬物中毒症状が加わると、全くその危険性を顧みなくなる人が多数います。
それは、喫煙であり、ある程度以上のお酒であったり、偏食であったり、といろいろあります。その中で世界中で「脱たばこ」の行動が起こっているのに先進国の中では見本は動きが鈍いですね。
これも、今回の事故の遠因と関係があるのでは。安全や健康に対する基本的態度の欠如ですね。
2008年4月26日
「また、来た道」?2回目の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)
4月22日に2回目の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が実施されました。
結論を先にいうとテスト結果の利用のされ方が問題をはらんでいる。もともとの文部科学省の利用方法だけならよいのだが、以前の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)と同様のことにしか執着していない面々が「順位」を声高に叫びだしていますね。
イギリスでは、大々的に競争原理を導入した教育改革を実施しました。結果は、一部上位層をのぞく大多数の学力低下に見舞われたようです。そして、底辺校や低学力児童生徒に対する対策を実施する羽目に。
アメリカもパッとしないですね。
フィンランドは、日本的競争原理とは無縁のようです。
現在の学力低下の大部分は「勉強の軽視」です。その典型例の一つが「試験に出ることだけを覚える」というものです。
活用できる知識というものは、生活体験を基礎に幅広い学習のもとに形成されます。そして、記憶も長続きしやすいです。それに対して、脈絡もなく単純に丸暗記したことは非常に忘れやすく活用もできないですね。
にもかかわらず、「順位」のみ気にしている。「井の中の蛙」状態であることに気がついていない。
前回の学力テストで西日本のどこかの県で、学校平均が90%を超えたところがあったとか。でも、その世代でそこから優秀な人材が多く出たわけでもなさそうです。
高校では、生徒の進路希望を無視するような指導をおこなったり、悪くいえば「だましたり」しているところもあるようです。昨年、発覚した私立大学のセンター利用試験の受験料を高校が負担した例が罪がないほうかもと思います。どうせ、大学側も辞退を見込んでいますからね。
2008年4月14日
公立高校の入試で「推薦入試」学力不足を懸念して廃止相次ぐ
長らく中断していましたが、ようやく再開できるようになりました。
4月13日の朝日新聞に「公立高、推薦入試の廃止相次ぐ 学力不足を不安視」という見出しの記事が出ていましたね。
どういうことなのでしょうか。「推薦」とは、進学先とか就職先などで活躍できるという前提では。まあ、「自己推薦」なるものをしている県もあるようなので一概に言えないですけどね。
ただ、今の多くの子供たちの考え方がネックになっているようです。なにかというと「勉強は最小限で楽したい」という考え方ですかな。
でも、このような考え方は誰からかというと、「大人」からですね。テストに出るところだけを勉強するすればという考え方。
そうすると、早期に合格になると、そのあと勉強がおろそかになる可能性が高いですね。実際、そうみたいです。
また、入試科目の関係から勉強する科目数が減る県もあるようです。ですから、中学校卒業後かできるだけ遅い時期の入試にまとめる方向みたいです。
中学校もその方が学習指導がしやすいというメリットがあるのです。
内申書重視の入試は、中学校3年間をすべて受験中にしてしまいました。
高校入試は、中学校卒業後に行い、学力テストのみのグループと内申書も考慮するグループの2つに分けて同時に実施するのがよいと考えるのですが、いかがでしょうか。
どちらの方式でも生徒によって、有利不利が出てくるので「平等」な方式というのはないと考えます。
2008年3月31日
数学を勉強しよう
3月31日日本経済新聞教育面に「『数学は言語力』視野に」という見出しの論説が出ていました。
新学習指導要領の数学に関してですね。学力低下が1990年から指摘されていたにもかかわらず間違った意味の「ゆとり教育」が行われて、現実問題として、OECDによるPISA調査で「読解力」の得点が国際平均そこそこだが、科学リテラシーや数学リテラシーが曲がりなりにも世界トップクラスであって、大きな違いがでてきた。
2006年の調査でも変わりは見られなかったが、大きく報道された。そして、一連の騒動が起こるわけですね。そうそう、全てで世界トップクラスのフィンランドの授業時間は世界的に見て、少ない方ですよ。
これの見出しに「数学を勉強しよう」と書きましたが、「論証問題を解こう」というほうがよいかもしれないですね。どうしてかというと、小中高校で「論証」を本格的にするには、数学が一番だからと考えるからです。
「論証」は他の教科でもできますが、本来生徒にとって取っつきやすいはずなのです。
それが、今は数学では「公式を覚えて計算する」だけとしか思っている人が多くなってしまったのでは。「別解」を示すと「一番楽に解ける方法を教えて」という要求が出されるとか。でも、考えずに「テクニック」にのみ走ると忘れやすいですね。
公式を導くことができるようになっておくと、公式を忘れても導けるし、使い方は忘れていないことが普通ですね。一見、手間が掛かるようですが、論証をきっちりすると記憶に残りやすく、応用も利きます。そして、このような能力は他の教科の学習にも役立つはずです。
「論証」できるためには、高い言語能力が必要になります。全ての物事は「言語」で考えているのが人間です。
だから、数学に限らず、全ての教科で必要となる「言語力」を高めることですね。その練習に数学の論証問題が最適ではと考えるのです。
2008年3月17日
犬山市の全国学力調査(学力テスト)不参加について
3月16日の朝日新聞のサイトで『学力テスト不参加、犬山市長「混乱に巻き込みたくない」』という見出しの記事を見つけました。
全国学力調査ですが、他紙でも最近取り上げられていました。保護者が学校順位を気にしているとか。
イギリスでは、テストの学校平均点で序列をつけて競争を取り入れてましたが、挫折したようですね。最近は学習の遅れている子に対して個別指導や補講を多くするとかの方向に転換しています。それは、「学力低下」が起こったためのようですね。一部上位層を除いて低下した模様です。
フィンランドでは、どうも「順位」という感覚がないようなのですね。授業時間は世界の中で少ない方ですね。フィンランドは。
「順位」と「学力」ですが、母集団によって乖離が出てきます。高等学校入試の内申書重視が間違っていたのは「母集団が異なれば学力も異なる」ということを無視した点にあります。それと、学校内の競争であるため、「皆でサボれば怖くない」や「記述式の解答をさせにくい。(結果として記号選択式に)」にせざるおえない。中学校内定期考査で単純丸暗記で対応できる問題の多用ですかな。そうそう、生徒一人の分校では、その生徒の評価はオール3(5段階)です。どれだけ、優秀でも、その逆でもです。ようやく最近配慮されているようです。母集団の能力の低いところほど有利ですね。
大学入試での「センター試験」の取り扱いもですね。京都大学理学部のような「資格試験」的扱いでよいものを他大学は「競争試験」用とした。その結果、国公立大学の序列が完成してしまった。
学力調査は現状を知るため、それを元にどう対策するかを考えるために利用するものだと考えます。
ところが、世間の関心の向いている方向を考えると犬山市の不参加は支持されるべきだと考えます。活用の仕方が間違っているのです。
2008年1月29日
子育てには経験者の助言もほしい
1月28日の日本経済新聞教育面の「数字は語る」に「育児不安、強いほど体罰」というのが出ていました。
これは全国私立保育園連盟の2005年の調査でこのような傾向が鮮明にでたというのです。
詳しくは全国私立保育園連盟のホームページで。
どうして、「育児不安」が大きくなるのでしょうか。人間の子育ては「学習」なのです。「本能」では母乳を与えるぐらいしかできないのです。
すると、その「学習」を何時するのでしょうか。以前は3世代の大家族であったり、子だくさんなので家庭内や近所で「育児」の疑似体験があったり、経験者の助言を得やすかったりと考えられます。
ところは、現代は核家族、少子化で近所に子供がいなかったり、「学習の軽視」で学校での「家庭科」の学習ができていなかったりと悪条件がそろっていますね。
そして、偏った情報の鵜呑みや「標準値」(最近はこういわないかな)への拘り、一面的な比較(「進んでいる」とか)に対して、熟慮できなくなって焦りが出ている場合も多いようです。そして、「体罰」へと走ってしまうのでしょう。さらに、人間は育てられたように育てる傾向が強いですね。虐待を受けた親は子供を虐待してしまう確立が高いというのです。
そこで、適切な助言者と関わりやすい体制、公的相談体制の充実させ、子育て中の家族の横のつながりを構築できるように支援する必要がありますね。公共事業の前にね。全国私立保育園連盟の調査では「育児不安」も少子化の原因の一つになっているとのことです。少子化対策では、「産休」「育休」の充実は当然ですが、「育児不安」対策にも目を向ける必要があります。
2008年1月21日
大学入試センター試験終わる。
1月19日20日と2日間にわたるセンター試験が昨日終わりましたね。今年も問題の内容はよいのですが、利用のされ方に問題がありますね。どうして、基準点方式にして、あとは各大学の個別試験で合否を判定する京都大学の理学部などの方式をとらないのでしょうか。
今の状況は、どの段階でも順位がものをいっていますね。だから、学力のレベルはどうでもよいとはいいませんが、何人を合格させるかにあわせて最低点が出てきますね。
福島県立会津大学ができた当初は、外国人教授が絶対評価をして、4分の1ほど留年がでて、問題になったようです。その時、外国人教授は「できない学生を留年させてなぜ悪い」のか理解できなかったといいます。日本人の教員もつられて絶対評価をしたのかな。
このおかげで、会津大学の就職は非常によいものですね。学部の関係でちょっとコンピューター関係に偏っているので解りにくいです。児童生徒学生を鍛えるには「絶対評価」をうまく活用する必要があると思います。
それには、センター試験の基準点化をまず実施すべきだと考えます。それが、高校教育にもよい影響を与えるのでは。但し、大学進学希望者は私学希望者を含めて、最低でも5教科7科目受験でしょうね。基準点方式なら年に2回とかしてもいいですね。
まあ、共通一次で国公立大学の序列化が進みましたからね。入試に使う共通テストで、自己採点でほぼその得点が判明しているので、模試から推定するより確実ですね。
センター試験の得点に大きな割合を与えて合否を判定しているところは一目瞭然で最低点とか分布を模試の業者が調べることができる状況であるということを理解しているのでしょうか。
基準点方式ならセンター試験の実施に対して、おおらかに対応することもできると思います。今年も各地で少しトラブルがあったようですが、ニュース沙汰にはなりにくくなるのでは。受験生もカリカリせずに対応できるお思います。でも、トラブルはない方がいいですね。
2008年1月15日
OECD試行の大学別学力調査に日本も参加方針
1月13日に朝日新聞のサイトでこのテーマの記事を見つけました。記事の見出しは「大学別学力調査、日本も参加方針 OECD試行」でした。
大学での学習の評価についてですが、技術者教育では日本技術者認定制度(http://www.jabee.org/)というの以前からあります。これは、世界に通用する技術者教育のレベルに達しているかどうかを申請のあった大学の教育課程などを審査して認定する制度です。これとは別にOECDが調査しようということです。
対象分野として『工学、経済学、自然科学のほか、「批判的思考力」といった専攻分野を超えて高等教育で身につけるべき能力』も含む方向のようです。単なる日本的学習ではなかなか身に付きにくい能力が含まれていますね。
「批判的思考力」とはどのようなものなのでしょうね。試行調査を行われることによって、具体的なイメージが得られるでしょう。日本で欠けているのは「批判的」なものも見方かも。「皇帝」か「否定」の両極端になるような発想法では「批判的思考力」というのは身に付きませんね。
「思考力」とか「想像力」とかは、「確かな基礎学力」が基礎として必要です。この「確かな基礎学力」とは「暗記」するだけでは身に付きません。択一式問題でも身に付きにくいです。論述式は大分有効でしょうが、他者に誤解なく意図を伝えることができる能力があってこそでしょうね。ところで、この文はどうかな。まだ、解りにくい部分、誤解されやすい部分があると思います。適切な助言をいただければと思います。
これを機会に日本の大学教育の底上げに繋がれば期待します。
2008年1月7日
情報を活用には「受け手も智恵が必要」
2008年1月6日付日本経済新聞「SUNDAY NIKKEI α」の健康面にある「健康情報 読み解く」というコラムで「受け手も智恵が必要」という見出しで東北大学公共政策大学院教授の坪野吉孝氏が書かれていました。
昨年の「あるある大辞典」での騒動ですね。その例から解説されています。捏造発覚の前の「納豆ダイエット」の件である記者が問い合わせてきたというのです。「納豆ダイエット」の信憑性についてですね。記者が疑問を持ったのは良いとは思うのですが、返事を「翌日」にといったということです。責任ある回答をするには1週間程度必要なことなので断ったということです。記者はどう考えていたのでしょうか。即答ができないこともあるというのに気がついていなかったのでしょうね。今は「即答」とか「即効性」をやたらと求めていますからね。その結果が、以前より悪くなったりしていることに気がついていないですね。
食生活と健康との関わりについては長期に渡る大規模な集団の追跡調査が欠かせないのです。それを少数で短期間で結果を求めようとするから「捏造」に走る原因にもなっているのでしょうか。
問題は受け手側も「即答」や「即効性」を求めすぎて、情報の信憑性を無視している、というか、信憑性を判断するために必要な「活用できる知識」や「智恵」を持っていないから「鵜呑み」してしまうのでしょうね。
これは、健康情報以外の情報でもよく見られることですね。「鵜呑み」にして「行動」する。調べようとしないのですね。
これは、日本人の国民性でしょうか。あの戦争に突入していった当時の軍部の上層部は当時の「エリート」ですね。ただ、自分らの記憶にあわない情報を無視していた。都合のよい情報のみ裏を取らずに取り込んでいたのですね。
情報を活用するためには「幅広い教養」が一番必要な基礎かもしれませんね。それも「活用できる智恵」ですね。
今、一番教育に欠けている点かもしれませんね。その結果、学習者は学習したことをよく忘れますね。
2008年1月5日
日本人にあるの?「サイエンスの心」
2008年1月7日新春特大号の日経ビジネスの有訓無訓に江崎玲於奈氏が「”サイエンスの心”が日本の限界打ち破る」という見出しでこの「サイエンスの心」について述べられています。
江崎氏のいう「サイエンスの心」とは「物事を論理的にとらえる思考力です。これは科学や技術に限った話ではなく、西洋の政治や経済、社会の隅々にまで多大な影響を及ぼしてきました。・・・」です。
「物事を論理的にとらえる思考力」ということですね。例として、太平洋戦争の時のことを取り上げられています。日本は「一億一心」とばかり、「勝利」のみを信じこんで)特に軍部)邁進した結果、負けましたね。しかし、西洋の二元論的思考では「勝ち」と「負け」の両方を想定し、勝つ方法だけではなく、時には「上手に負ける」ことも考えながら戦っていたというのです。
「物事を論理的にとらえる思考力」というのがなかったからということです。
物事の一面のみをみて、それを信じ込むというのが日本では幅をきかせていますね。「出る順・・・」とかいう参考書ですね。これが役に立つのはその分野全体が十分理解できてからだと思うのですが、「勉強は最小限」という意識の下では「出題されるのだけ覚えればよい」とばかり利用されているのでは。知識の細切れかが起こると理解できないし、忘れやすくなることに気がついていない。「学習」についての科学的考察のなさがなせる技ですね。まあ、「勉強とは暗記」という論理的考察のない思い込みがあるかぎり続きそうですね。
OECDの学力調査で世界トップクラスのフィンランドの授業時間数は世界的に見て少ない方でしょうね。日本と何が違うのでしょうか。この違いを理解するために必要なのが「物事を論理的にとらえる思考力」ですが、ちまたでは「授業時間数増」のみが声高に叫ばれてます。
帝国陸軍の中枢は「エリート」だったですね。それも海外の軍事情勢に「目を閉じていた」としか思えない行動をしています。「物事を論理的にとらえる思考力」を持ち合わせていなかったと見るべきでしょう。
「物事を論理的にとらえる思考力」を持っていないと、自らの行動で墓穴を掘ってしまうことが頻発することになると考えています。
企業経営だけではなく、いろいろな場面でいえることです。